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ご当地の焼酎文化や歴史・雑学など!

焼酎まめ知識

焼酎の本格的な知識から、こぼれ話まで。
普段の一杯が、より豊かになる
「焼酎」にまつわる情報をご紹介します。

焼酎伝来
その他の雑学

焼酎の歴史

日本の蒸溜酒である焼酎は、いつ、
どんなところで生まれたのでしょうか?
焼酎好きなら知っておきたい焼酎のルーツや、
人々の間で広まり、親しまれていく
歴史の一幕などをご紹介します。
まずは蒸溜酒の起源から辿ってみましょう。

蒸溜酒の起源

歴史メソポタミアからギリシアへ

世界四大文明のひとつであるメソポタミア文明。
その遺跡で液体を蒸溜したと思われる土器が発掘されていることから、紀元前3000年頃には蒸溜技術の原型が発明されていたと考えられます。しかしながら、当時は酒づくりではなく、花やハーブから香料となる精油を取り出すために使われたようです。

蒸溜技術が文献として初めて記されたのは紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者・アリストテレスによってでした。「海水を蒸溜して飲用に変えられる。葡萄酒なども同じ方法で蒸溜できる。」といった記述があり、アリストテレスがワインからブランデーをつくる実験に成功していたことがうかがえます。
しかし、蒸溜技術が確定しても、蒸溜酒を飲む習慣はこの頃にはまだありませんでした。

語源蒸溜酒は「命の水」?

“焼酎=日本固有のお酒”と思われがちですが、
焼酎をはじめとする蒸溜酒の製造技法は、遠くアラビアから伝わってきました。

時代は中世のアラビア。錬金術師たちが蒸溜器を使って取り出した蒸溜酒は、消毒や気付け薬などの薬品として珍重されていました。

錬金術の技法がヨーロッパに伝わると、蒸溜酒はラテン語で「アクア・ヴィテ=命の水」と呼ばれます。その後の広がりとともに、国の言語ごとに呼び名が変化し、フランスでは「オー・ド・ヴィ」、北欧では「アクアビット」(ともに“命の水”の意)、イギリスでは「スピリット=精神」に。いずれも飲み物としてではなく、薬として愛用されました。

まめ知識

アラビア語で蒸溜器のことを「アランビック」と言います。フランスでは現在でも、ブランデーの単式蒸溜器は「アランビック」であり、江戸時代の日本では焼酎の蒸溜器を「らんびき」と呼んでいました。

また、日本や中国では焼酎の古い呼び名としてアラビア語の蒸溜酒「アラック」の音をあてた「荒木酒」「亜喇吉酒」(あらきしゅ)が使われており、焼酎の製法が遠くアラビアから伝わってきたことがうかがえます。

焼酎の伝来ルート

諸説ありますが、ここでは有力視され
ているふたつのルートをご紹介します。

伝来ルート
説1
【南方】シャム(タイ)→ 琉球(沖縄)→ 薩摩(鹿児島)

アラビアの蒸溜酒は、14世紀頃、シャムのアユタヤ王朝に伝来。それが当時交易のあった琉球に伝わり、泡盛となりました。そして、15世紀半ばには泡盛は琉球全土に広がり、16世紀になると親交のあった薩摩藩に渡ったというのが南方ルート。
泡盛は現在でもタイ米を原料としていることから信憑性が高いと言われています。しかし、泡盛はタイ米と黒麹菌でつくられるのですが、黒麹菌が日本へ伝わるのは明治時代になってから。そのため、南方ルートを疑問視する意見もあります。

伝来ルート
説2
【北方】中国 → 朝鮮半島
→ 壱岐(長崎)

13〜14世紀、アラビアの蒸溜技術が中国に渡って、白酒(パイチュウ)が生まれました。15世紀には朝鮮半島で高麗酒が誕生。当時、日本は大陸と交易しており、その中継地点である対馬・壱岐にそれらの酒と製造技術がいち早く上陸していたと考えられます。
壱岐は玄界灘に浮かぶ島ですが、麦も米も豊富にとれるため焼酎がつくられています。これが北九州に伝わり、日本酒づくりに使われる米と黄麹菌を用いた焼酎の製造技術が南下していったと言われているのです。

日本での広がり

歴史焼酎の世界を広げた“芋”の伝来

日本で焼酎がつくられるようになった当初、主な材料は米でした。しかし、米は清酒をつくる大切な材料であり、貴重な食料。そこで、清酒をつくる過程で生じる酒粕を蒸溜した「粕取焼酎」が生まれ、全国各地へ広まっていきました。

18世紀初頭になるとフィリピン → 中国→ 沖縄を経由して薩摩に芋が伝えられたようです。
唐の国から伝わった「カライモ」は、暑く、領地のほとんどが火山灰で覆われている薩摩にとって、痩せた土地でもすくすくと育つ救世主のような存在でした。
そこから、貴重な米ではなく、カライモを使った焼酎づくりがスタート。焼酎づくりの大きな革命となり、日本各地にご当地焼酎が生まれていきました。

歴史庶民のお酒“焼酎”へ

いくつかの文献から、室町時代にはすでに愛飲されていたことがわかります。

16世紀初頭の天文15年(1546年)。薩摩半島南東にある山川港を訪れたポルトガル人、ジョルジュ・アルバレスは、フランシスコ・ザビエルの依頼を受け、薩摩に半年滞在。『日本の諸事に関する報告』という見聞録を残しました。

そこには「人々は米からつくる“オラーカ(焼酎)”を飲んでいる」との記述があります。さらに「オラーカを飲んで正体を失った酔っぱらいを一人も見なかった。それは、みんな酔うとすぐ横になって寝てしまうからである」とも。当時の人々は、表では酔った姿を見せなかったようですね。

薩摩といえば“芋焼酎”ですが、この時代にはまだ芋が日本に伝わっていなかったので、米焼酎が飲まれていたと考えられます。

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日本の文献に焼酎が登場するのは、永禄2年(1559年)。鹿児島県伊佐市にある郡山八幡神社の屋根裏から発見された木札に

「永禄弐年八月十一日 作次郎 鶴田助大郎
其時座主ハ大キナこすでをちやりて
一度も焼酎ヲ下被下候 何共めいわくな事哉」

→座主はとてもケチで、一度も焼酎を
振る舞わなかった。なんとも迷惑な事である

と、記されていました。建築工事を終えた大工たちが、期待した振る舞い酒がなかったので、このようないたずらをしたのでしょう。この時代には、すでに焼酎が庶民のお酒として浸透していたことがうかがえます。

雑学焼酎の季語は「夏」

日本酒よりもアルコール度数の高い焼酎は、暑い夏場に活を入れる酒、暑気払いの酒とされ、夏の季語として俳句へ登場することになったようです。
焼酎発祥の地である九州や沖縄などは、暑さの厳しい地域。そこで飲まれていたことを考えれば納得できます。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、焼酎を飲めば夏の疲れが回復する=夏バテ防止の酒として愛飲されていたことが記されています。蒸し暑い夏日、ロックグラス片手に焼酎を飲めば、氷とグラスが奏でるカラカラという涼しげな音とキンとした冷たい口当たりが、一服の涼を与えてくれることでしょう。

まめ知識

江戸時代に薩摩で書かれた文献『大石兵六夢物語』には、「時すでに暮春、焼酎も今が飲み頃」。
これは、秋に仕込んだ焼酎をひと冬寝かせておくと、ちょうど春に飲み頃を迎えるということを示しています。となると、「焼酎」は春の季語としても使いたくなりますね。